牡鹿半島西岸の小さな湾で、慶長18年(1613)伊達政宗(1567〜1636)の命を受け、支倉常長(1571〜1622)ら180余名がサン・ファン・バウティスタでローマを目指して出帆した地です。入江の見える展望台には支倉常長の像が建てられています。また海岸近くには「南蛮井戸」と呼ばれる井戸や、「ビスカイノゆかりの地記念標柱」などが整備されています。
  現在中瀬に建つ教会堂は、長崎の大浦天守堂に次ぐ古さで、現存する木造教会では国内最古の建物です。昭和53年(1978)の宮城県沖地震で被害を受け、取り壊す予定でいたものを、石巻建青会等の市民が移築復元の運動を行い、約2,400万円の費用を募金活動などで賄い、昭和55年(1980)に竣工し、石巻市に寄付され同年12月石巻市指定文化財に指定されました。

 建物は木造二階建の和洋折衷様式で、上から見ると十字架の形をしています。手摺や土台には、塗り潰してから新たに木目を描き入れる「木目塗」と呼ばれる明治初期の洋風建築の意匠が施されています。イコンは、ロシア王室に献上の実績がある明治の代表的女流画家山下リン(1857〜1939)によるもので、当時の西洋文化と東洋文化の出会いが作風に感じられます。

 ハリストスはロシア語でキリストの意味でロシア正教を表し、日本では文久元年(1861)大主教ニコライ(1836〜1912)が箱館(函館)で布教を始め、さらに明治5年(1872)東京築地で布教を行いました。石巻では明治10年(1877)仲町の商人伊藤忠右衛門一家の入信がその始まりと言われています。しかし石巻とキリスト教の関係は戊辰戦争の時まで遡り、旧幕府軍と共に折浜から榎本武揚艦隊へ乗船した多数の仙台藩脱藩兵士等が後に箱館で洗礼を受け帰郷します。かくして宮城県北部にハリストス正教が定着する基礎が築かれ、後の自由民権運動にも影響を与えたと考えられています。 東京でニコライの洗礼を受けていた勝又c(アキラ1848〜1919、初代湊小校長、県議会議員)の努力で、明治13年(1880)新田町に石巻で最初の教会堂が建立され、後に湊・釜にも教会堂が作られています。

  石巻の初代司教である坂本竜馬(1835〜1867)のいとこ沢辺琢磨(1834〜1913)は、一時、ニコライの殺害を企てるものの、その教えに深く打たれ洗礼を受け、熱心な信者となりました。明治22年(1889)5月にはニコライ自身が来石し、布教活動を行いました。

  江戸幕府は貨幣経済の急速な発展に対応するため、寛永13年(1636)寛永通宝の鋳造をはじめ、通貨の統一を図りました。江戸以外の各地にも銭座がつくられ、仙台藩でも鋳造が認められ、はじめ栗原郡の三迫で作られました。享保13年(1728)には石巻に銭座が移され、「寛永通宝」や「仙台通宝(撫角銭)」などが作られるようになりました。

  石巻に鋳銭場が置かれたのは、北上川の船運によって、原料や燃料が集めやすかったためと考えられています。石巻の鋳銭場での鋳造は何度も中止されたり、再開されたりして、明治の鋳造廃止までおこなわれ、年間最大178,000貫あまりの銭が鋳造されました。

  石巻市内に100カ所以上もある遺跡の中でも最も有名なのが稲井東部にある沼津貝塚です。この貝塚は安永2年(1773)の「牡鹿郡陸方沼津村風土記書出」の中に土器や鏃が出土しているとの記述も見られるように古くから知られていました。  明治42年(1909)から20年間にわたる毛利総七郎(1888〜1975)と遠藤源七(1890〜1961)による調査で膨大な数の遺物が発掘されています。これらの出土品は、毛利コレクションとして保管され、多くの研究者の論文の資料として活用されました。

  沼津貝塚からの出土品の中でも注目されるのが骨角器で、主に鹿の角で作られた釣針・銛・やすなどの漁具が多く、同時にマグロ、スズキ、ニシン、クロダイ、マダイ、サバ、ヒラメなどの魚の骨が出土しています。

  面積約5,000坪と県内屈指の広さを誇り、縄文時代前期から晩期までの重要な遺物が出土しているなど、縄文時代の研究にとって重要な意味を持つ貝塚であるため、昭和47年(1972)10月国の史跡に指定されています。